励ましの言葉
- 2018/03/10(Sat) -
吉村順三のディテール
自分のモヤモヤとした心の言葉を文章にして表現する作業は、小学生の時の作文に始まる。
その行為は、少しずつ自分の心身の成長と共に心を見つめるレベルも変わって来た
中学一年生の時、英語の授業で赤熊先生が、「君たちは日誌を書くとよい」 と言われた
英語の授業に関係のない日誌を書くということを自分の体験を通じていかに良い事か熱弁をふるって語ってくれた
その先生の授業のその言葉は今でも私の心の奥に残り、文章を書く心に火をつけた最初のメッセージとなっている

毎日書く日誌は、中学一年生に始まり22歳の大学4年生まで続いた
日誌を書く行為は、自分の心を見つめるという文章を書く訓練にもなった

中学三年生の頃には、ヘミングウェイの「武器よさらば」を夜を通して読んで、痛く感動した事、それに刺激を受けて、継続してきた日誌の内容のレベルが変わったと思う。
中学生の私は伊藤佐千夫の「野菊の墓」に涙が止まらなかった。山本有三の「路傍の石」を読みながら社会の中で揺れる少年の多感な心を初めて知る。
高校生の時 O・ヘンリーの「20年後」の文章表現のカッコよさに感心し、野坂昭如の「火垂るの墓」に涙した。
大学生になって、小林秀雄の「無私の精神」に批評家の鑑識眼を初めて知る。五木寛之の「内灘夫人」に大人を魅せられた。

建築の事を勉強するようになり、日常的な建築設計の行為と自分で学習する建築関連の読書で、住宅や店舗を設計する時
吉村順三が宮脇檀と対談で語った「品のいいうちを設計すると、そのような人が育つ・・・」という体験に裏打ちされた自信に満ちた言葉には驚きと共に、やっぱりそうでしたか・・・・と納得させられた言葉でもあった
吉村順三が設計された、高松市屋島に出来た「カーニバル」という今は無きレストランの内外装とデディテールと空間。 後に東京でOMソーラーの講習会場として使われた、旧吉村順三事務所の内部空間等
思い出して体験した空間の質素だが品の良さを、いつも心の隅に持っている
それは、設計者として生きて行く上での体験を通して得た励ましの言葉となっている

もう一つは、20年くらい前、入院中の豊嶋の叔父を中央病院へお見舞いに行った折
従姉妹の今は亡き美智子さんが付き添われていて 「三本松の武吉さんのお子供さんが来てくれましたよ・・」と説明してくれた時
その叔父は 「この子は小さい頃から違っていた、出来る子なんよ・・・よう来てくれた、ありがとう」とベッドの上で話してくれた
 
その後間もなく、叔父は亡くなられたが
建築の設計を国鉄でされていた叔父のその誉め言葉は、今も私の背中を押してくれている

生きて行く上で、素朴な日常の会話や、本から読み取った言葉、その人だけが心に響いた言葉が生涯を貫く励ましの言葉となり
長きに渡り背中を押し続けてくれることがある
そのメッセージをきちんと聴きとり、生きてきたどうかは不確かだが
果たして私自身は、後輩や知人に励ましの言葉をいか程 送ることが出来ているだろうかと・・・振り返りながら稚拙ぶりを思う

文章を書く心1 吉村順三の言葉 





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